歴史
当社は、天智天皇が琵琶湖の神を祭祀したことに始まる。
その創始は、天智天皇御代8年旧9月9日神奈備(御霊殿山)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに小祠を建てて祭祀なされた。
持統天皇御代朱鳥元年旧5月1日粟津の王林の地・石坐野(膳所石神町)に八大龍王宮と正霊天王宮との両殿が創建された。

八大龍王神とは、琵琶湖に縁ある神様で龍神と称えられ、わが国では、水徳の恵みの神で、古来より雨乞いの神、福寿厄除の神としての信仰がある。

光仁天皇の宝亀4年(773)旧12月3日当社に正1位勲1等を授けられ鎮護国家の神社の神社なりと勅語があり、翌5年12月3日勅会の祭礼が行われ、以後毎年この日に行われた。一度だけの平城京よりの勅使参向である。

12月3日は天智天皇の忌日に当るからである。
次いで承和2年(835)12月3日宣旨あり、
  近江国滋賀郡石坐の庄 (膳所石神町のこと)
     石 坐 神 宮 社
  勅願之儀 修造の功為り 天下泰平を祈り奉るべし
  宣旨 此の如し 仍って執達 件の如し
   承和2年12月3日  按察使 藤原良門
   公門上人御房 (正霊天王宮 別当職)

建久3年(1192)右大将源頼朝上洛の途次、当社に御田代修理料を寄附し、諸国関役料を免じた。

正治元年(1199)3月佐々木左衛門尉信綱が御霊殿山の社を再建し、御霊殿神社の額を自書して鳥居に掲げ、神輿一基及び如意輪観音一体、薩垂鏡一面、名刀一口を寄進した。
錦織冠者義広も鏡一面を寄附し共に神輿の飾とした。

建保2年(1214)5月1日神殿再建のことがあって、左近衛中将藤原資平を勅使として差遣された。

文永3年(1266)8月神主佐々木八郎左衛門尉守安は、社殿を湖辺に遷し、更に社殿を造営した。今の神地社殿はこれである。旧地(膳所石神町)より5町離れた西の庄の湖辺である子安は大友与多王の遠孫であるが佐々木を称した。
  その棟礼には次の通りである。
   捌 宮 棟上  神主  佐々木守安
          大工  藤井為弘 藤井宗貞
     文永丙寅年 (1266) 8月29日
当時は捌宮と称し、粟津八宮とも云った。

弘安年中(1278)皇子御病気で医療効なく占筮させられたところ大鯉を捕え寝所に用いよと 当社に御祈願あり 南郷の青山藤右エ門と云う人が、高木のア(石坐神社前)で網を曳き、1尺3寸余の大鯉を獲たので、之を献じたところ御平癒になったので勅使を派遣し奉幣された。また閑院三条従一位左大臣実房公より八大龍王宮の額を寄進された。

文和3年(1354)後光厳院勅願所の宣旨を賜り、近江行幸の時に幣帛料・菊桐御紋の戸張を寄進された。

応仁の乱(1467)に当社も歴代所伝の古文書、神宝などを多く散佚した。

永正元年(1504)閏3月17日、近江守護佐々木定頼が神輿を再営し御供所を建立し、且つ、四至傍示を改めた。

天文3年(1534)5月 法伝寺住僧から社務を小西氏・江阪氏に譲られた。
これで承和以来一乗院滋賀寺(法伝寺)が兼掌していた社務が錦織氏の系統から出た近江朝の遠裔の小西・江阪両氏に渡された。

慶長5年(1600)関ヶ原の役に大阪軍が来て神域に陣し、敗軍に及んで火を放つ時に八大龍王宮は災を免れたるも上古より伝われる古記録・宝物消失する。

江戸時代雨乞いの御神徳により膳所城主の篤い崇敬を受ける。

明治6年 高木神社と改称   旧石坐神社に復す 

大正9年6月10日 時の記念日が定められ時の記念漏刻祭を執り行う。

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